山と信仰

 

ひとりで山に登っていると、気持ちが内に内に入っていく。

 

 

今年の初登山に選んだのは奥多摩の三頭山だった。

登山の前の日ははやく寝る事が出来ない。装備で忘れ物はないのか、余裕を持ったスケジュールで行動計画を立てているのか気になってしまう。それもこれも、一人で山に登るのが不安で仕方ないからだ。

 

奥多摩駅から朝7時発の鴨沢西行きのバスに乗り込み、登山口がある峰谷橋まで向かう。バスの中はしんと静まりかえっており、ガタガタと音を鳴らしながら山をのろのろと登っていく。

 

峰谷橋バス停で降りたのは僕と30代くらいの登山馴れした風の男性だけだった。おそらく僕と同じく奥多摩湖の浮き橋を通り、イヨ山を抜け三頭山を目指すルートを取るのだろう。しかし、トイレに寄っているうちにその男性の姿は見えなくなってしまった。昨日買っておいたベーグルをかじりながら、ゆっくりと後を追いかける。一人もくもくと歩き、自分の身は自分で守らなければいけないのだと気を引き締める。

 

 

ひとりで雪が残っている山に登るのは初めてだった。考えた以上に雪が積もっていて、ルートを見失ったらどうしようとずっと考えながら歩いた。

心配事が胸の中にあると何でもないような道が怖く思えてくる。朝7時半の山のなかは暗く、日が当たっていない場所もたくさんある。

 

「ああ、怖いなあ。何かあったら嫌だなあ。神様、無事に帰れますように。」

と頭の中で唱えていて、ふと考える。

 

「あれ、俺はなんで神様に祈っているんだろうか。」

 

 

8時も過ぎるころには日が昇ってきて、木の間から太陽がこちらを照らす事もある。すると、目が慣れていないからか一瞬視界がまっしろになって、回復するのに少し時間がかかったりする。

 

そういえば、時代小説の中でこんな描写があった。

『馬を追いかけ、山の中に入ったら道を見失ってしまい、祠をみつけた。すると急に風がごうごう吹き始め、木々が揺れ立っている事もままならなくなってしまう。身をかがめてやりすごし、止んだかと思い目をあげれば目の前にはおかっぱ頭の女の子が立っていた。」みたいな。

 

目の前におかっぱ頭の女の子が立っているなんて事はないだろうと思いつつも、山でひとりだし、視界は無くなっているしで現れてもおかしくない状況だと思った。

 

昔の人は『神様の仕業』という言葉で起こる出来事を説明し、身を守るためないし危険な場所に立ち入らないようにしていたのかも知れない。

神様の仕業だと説明出来れば、信仰という形で心の平穏を保つ事が出来るし、危ない場所だからと子どもを遠ざける事も出来る。

 

GPSもなくて、地図もなかった時代に出来るのは神様に祈る事だけ。本当に困った時に出来るのは信仰だけなのだ。いや、信仰してきた自信があるからこそ、困った状況に上手く対処出来ているのかも?

 

冬の山は人が少なくて、助けを求める人もいない。頼れるのは自分だけだ。心細い。その状況の中で、神様という味方がいると認識しておくのはすごく心の支えになるに違いない。

信仰の力ってすごいんだなあ。と歩きながら思う。

 

僕は山に登るたびに神様に「無事に帰れますように」と祈っているため、このままでは自分のお願いをするだけの都合の良い輩になってしまう。おばあちゃんの家に行ったらちゃんと仏様に挨拶をしなければ。

 

 

 

 

頂上に着く手前、素晴らしい景色が広がっていた。足を止めて木に寄りかかってみると空気がシンとしていて、音がまったく無い事に気づく。夏の生き物がたくさんいる山も良いけど、冬の山も落ち着いていてすごく良い。

 

 

 

 

山頂からの帰り道、切通のような道を歩いていると自分のすぐとなりでガサガサっと音が鳴った。ただ歩いた衝撃で道端の石が落ちてきただけだったのだが、心臓は飛び上がっていた。

 

熊じゃなくてよかったと胸を撫でおろしながら、山を下る。

「無事に帰ってくる事が出来てよかった。ありがとうございます。」と頭の中で唱える。

 

 

心臓が飛び上がるような経験を都会の中でする事はまずないし、神様の存在を改めて感じる事も普段はないので、一人で山に入る事は刺激的ですごく楽しい。

 

 - 雑記